Being a "Real Man", Success, and the Good Life

私の研究テーマはこんな感じです
ケニア移民の最も幸運な男子マラソン選手にとって、日本滞在中、長距離走で成功することは最優先事項ではない。移民としてのマラソン選手達の主な焦点は、人生で成功するため彼ら自身の理解に不可欠なケニアの男らしさのイメージと一致するプロセスを辿ること。 私の研究は、こうした選手達が、「本当の男らしさ」を実現する上での主な課題を探る。彼等が自分たちを成功者として組み立てるには、マエンデレオ(スワヒリ語で前への推進力と進歩の感覚を意味)をはっきり同国人に示すことが必然であると考える。本国ケニアで「劣った人間」になることや、さらに悪いことに「役立たず」のレッテルを貼られることを恐れ、必死で避けようとしている。
こんなこと知りたい、話し合いたい、教えてほしい!
ケニアのスポーツ移民というレンズを通して男らしさの今までとは違った理想像を見つけること、また、これらの若者の人生を追うことによって、「成功」と「良き人生」の新しい意味が浮かび上がってくるのでしょうか?
私、こんなことできます。このことなら私に聞いて~
野球とマラソンの事なら私に聞いて: 以前MLBで日英通訳、米スポーツメディアESPN番組でMLBビデオやコンテンツ制作。自身も何回か全国上位入りしたマラソンランナー。現在は文化人類学学徒(博士課程修了残すは論文のみ)。
“Being a “Real Man”, Success, and the Good Life” に対して7件のコメントがあります。
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スポーツ移民となれる人は国民のほんの一部だと思いますが,それらの人が,帰国後にどのように国民に影響を与えるのかが気になります。その人達が成功者として何ができるのでしょうか?
これはとても良い質問です。 この質問に答えるには、まず私自身の質問に答える必要があります。 海外へ行く日本人の男女アスリートは、家族や地域社会に対して何を期待されていますか? 私の単純な意見ですが、海外で活躍できる日本人選手の多くは、もともと経済的には比較的恵まれた環境の出身です。 さらに、スポーツだけがより良い生活を実現する唯一の機会ではありません。 スポーツがうまくいかなかったとしても、彼らは良い生活を見つけることができます。 さらに、日本の人々は自分たちの生活をこれらのアスリートに依存しているわけではありません。 最初の質問に戻りますが、私の意見では、日本人のアスリートは、おそらくスポーツで良い成績を収めたい若い世代のアスリートにインスピレーションを与えているのではないかと思います。 一方、ケニアのアスリートにとって、スポーツそのものでの成功は、他の多くの人々により良い生活への希望をもたらすことほど重要ではありません。
日本に来るのは、マラソンや駅伝を応援する文化が根付いているからですか?ほかのスポーツについては同じようなことにはならない?
ケニアのランナーたちはケニアを離れるチャンスを狙っているだけです。ケニアのアスリートが米国の大学へのスポーツ奨学金のオファーを受けたら、それを受けるかもしれません。 ケニア人ランナーがヨーロッパのロードレースや陸上競技大会への招待状を獲得した場合、参加するかもしれません。日本は才能あるランナーが日本の実業団チームで走ってお金を稼ぐチャンスを独自に提供しています。 日本のような企業スポーツリーグ制度を持っている国はありません。 それ以外の世界では、おそらく世界で最も速いランナーだけが、ナイキのようなトップスポーツブランドのスポンサーになってお金を稼ぐことができるでしょう。 野球やサッカーのように、お金を稼ぐチャンスを提供するさまざまなレベルのリーグが存在するわけではありません。 ランニングチームは企業の宣伝手段であり、私立大学や高校にとっても宣伝手段です。 ケニア人、さらには海外へ行くチャンスを望んでいるエチオピア人ランナーの場合、幸運なことに日本の高校、大学、大学とのマッチングが得られ、需要と供給が一致しています。ケニアの他のスポーツには当てはまらない。 ケニアのランナーがランニングを追求するのは、ランニングを通じてケニアを離れることが他のどのスポーツよりも高いからです。需要と供給。
プロスポーツでの成功像とはだいぶ違うんですね。とても興味深いです。
世界中の人々にとってスポーツがどのように異なる意味を持っているかを認識していただきありがとうございます。
世界中の人々にとってスポーツがどのように異なる意味を持っているかを認識していただきありがとうございます。